この世の中には何故、理不尽なことが多いのか?

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この世の中には何故、理不尽なことが多いのでしょう?

もし、神が存在するのなら、どうしてこの世界の多くの理不尽を許しているのか、という疑問を抱かれる方も少なくないでしょうし、だから神など存在しないのだと言い張る無神論者もいます。

「魂の法則」から、その疑問に答えている部分を抜粋します。

 無神論者は、「神が実在するのだったら、この世の多くの理不尽を許す筈などない」と声高に主張していますが、これをどう思われますか?

 そのような意見の者は、人の命が肉体の誕生と共に始まるという信念を持つために霊的な真相を完全に理解できず、それで、地上の一部の劇的な状況を理不尽だと解釈してしまうのだと思う。
 人間の生が誕生をもって始まると見なせば、神が初めから一部の者だけを優遇してその他を冷遇しているように見えるので、この世は不平等で、創造主がいてもやはり不公平なのだろう、という避けがたい結論に行き着いてしまう。
 生まれた時から、先天的な病気や極貧、歓迎されない家族の下に生まれるなど、災難が山積みの人生が見込まれる人がいる一方で、ずっと賢く美しく、深く愛され健康で、神のお気に入りに思える人がいないだろうか?
 しかし我々が、今生は各人の生のほんの短いエピソードに過ぎず、今編は、今の魂の状況と内容的にきちんと噛み合うこれまでの連載ものの続編で、ふさわしい結末であると考えられれば、以前は理解できずに不公平に思えた事柄を、次第に理解し始めるであろう。
 実にすべての魂は、同じ起源から生じている。魂という存在はすべて、無知で無自覚な生命の素として等しく創造されたが、無数の転生経験を総合して、愛と叡智の最高次元に達するまで、絶え間なく永久に進化する可能性を宿している。
 ある魂と他の魂との唯一の違いは、創造された時期、つまり魂の年齢による。魂の生命の創造過程は、やむことがないからだ。
 あるものは、君たちの銀河系がまだ星雲になる以前の何十億万年前に冒険を開始し、物質界への数え切れない転生の歴史があるが、他のものはまだ進化を始めたばかりの、いわば若い魂だ。
 各々の行為と決断により、進化の道程は真っすぐにも、曲がりくねったものにもなるし、遅くなったり速くなったりもする。
 ほんの稚い幼児期から愛と理解の偉大な能力を持ち、年齢に不釣り合いなほど精神的にとても成熟している人がいる一方で、肉体上では大人や老人なのにまだ振る舞いが幼稚で、見かけほど歳がいっていないように思える人がいることに、気づいたことはないだろうか?
 ある魂と他の魂との霊的な力量の違いは一見先天的なものに見えるが、魂の年齢差とこれまでの転生を霊的進歩のために有効活用してこられたかによる。
 各人の今生の環境の違いは宿命の産物に思えるが、実は、これまでの前世や肉体に宿っていない期間に決断してきたことに起因するのだ。
魂の法則」より

魂の年齢は、人によって何百歳、何千歳、何万歳もの違いがあります。
肉体的にはまだ若くても、数多くの転生を繰り返しており、魂の年齢でいったら、何万歳にもなる人もいれば、逆に肉体的には老人であっても、まだ若い魂で、転生回数も少ない場合は、魂の年齢は数百歳でしかないということもあるでしょう。

同じ年齢であっても、精神的にも安定していて、紳士的な人もいれば、すぐに感情的になるような子どもっぽい人もいます。
こういった違いは、魂の年齢の違いによるものなのかもしれません。

一概に、古い魂の方が精神的に成熟しているとは限らないかもしれませんが、精神的に未熟な人というのは、まだ魂が若く、人間としての経験が浅いからだと思えば、納得できる部分はあります。

また、裕福な家庭に生まれる人もいれば、貧しかったり、不遇な境遇に生まれたりする人がいるのも、前世でどのような人生を送ってきたかということが関係しており、神が一方的に宿命として押し付けたわけではなく、自分自身の選択の結果であると言えます。

ここで、単純にカルマ(霊的負債)の問題だけで考えると、誤った結論に至る可能性があります。
前世での行いが善かったから裕福な家庭に生まれ、逆に前世で行いが悪かったから不遇な境遇に生まれる、というわけではないからです。

霊的に成長した魂の場合、試練として、あえて厳しい境遇に生まれることもあるからです。
前世で自己中心的な生き方をし、他人を傷つけてきた場合、それ相応の宿命として、理不尽な境遇に生まれたりすることもあるようですが、ネガティブな出来事すべてが、前世のカルマとは思わない方がいいかもしれません。

すべての出来事には、それが起こる理由があって、必然性があります。
一見ネガティブと思えるような出来事が起こっても、その理由が、すべて自分のカルマのせいだとは思わない方がいいです。

そもそも、絶対的な意味において、良いとか、悪いとかということは存在しません。
最悪と思えることであっても、それによって自分が変わるきっかけになり、結果的に自分にとって必要なプロセスであったということもあります。

また、自分が持っている不調和な部分を、他人からの行為として経験することで、それに気づき、自分が変わるきっかけになる場合もあります。
起こった出来事に大して、良いとか、悪いという判断を下しているのは、自分自身なのです。

カルマ(霊的負債)というものは確かに存在しますし、因果応報というものも存在します。
ですが、単純にそれだけで考えると、何かネガティブなことが起こる度に、自分が何か悪いことをしたからじゃないか、と自分を責めることになります。

それは罪悪感に繋がり、自分自身を停滞させることになる場合もあります。
私自身がそうでしたので……。

「愛」の反対語は「罪悪感」だとも言います。
罪悪感を感じていると、自分自身を愛せなくなります。

自分自身を愛せない人は、他人を愛することも出来ません。
それは幸福から遠ざかるということでもあります。

その辺のことは、またの機会に詳しく書いていきたいと思います。

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